庄野太郎と吉野川治水の重要性を説いた「芳川水利論」(石井町)

  石井町役場から県道沿いにおよそ500m北東に行った所に天満神社があります。天満神社の小道に入った東に庄野太郎の生家跡地があります。

  庄野太郎は、文化10年(1813年)に名西郡高川原村(現在の石井町)で生まれました。幼少の頃から漢籍を学び、16歳で江戸の昌平黌に学びました。その後、阿波に戻り私塾を開き、子弟の教育に尽力しました。このように、庄野太郎は当時の最高学府で学び、最新の知識を持った第一級の知識人でした

  高い見識を持った庄野太郎は、農業経営の視点から吉野川治水の重要性を説いた「芳川水利論」を著し、慶応元年(1865年)に藩に提出しました。「芳川」とは吉野川のことで、この水利論は、吉野川中下流域の沖積平野の畑作地帯に用水を引き、稲作への転換を図ろうとするものでした。この試みは、明治後期の「麻名用水」や「板名用水」建設以前から、村落指導者層によって繰り返されてきた歴史があります。

  庄野太郎の構想は、麻植・名西両郡の灌漑用水路を計画したもので、現在の麻名用水につながるものでした。具体的には、川島の城山の麓を掘り抜き、吉野川の水を飯尾川に引き入れ、麻植上浦村に閘門を作り、西から石井町へと灌漑するというものでした。

  庄野太郎は、幕末の時代にあって、徳島藩が米不足に悩まされていたことから、自国内の消費は自国内で賄うべきだと考えていました。また、網の目のように広がる水田の灌漑機構が、大雨の際には広域的な貯留機能を有し、洪水調節の役割を果たすという利点も説いていました。

  庄野太郎の水利論は藩政期には実現しませんでしたが、明治後期に南岸と北岸で用水が整備されました。現在は、さらに池田ダムから北岸用水が整備され、庄野太郎の想いは実現しました。これらの偉人の構想は、民衆の願いを伝える防災風土資源といえます。

  この太郎の構想は、現代において利水・治水事業として実現しており、先人の知恵を未来に活かすことの重要性を教えてくれています。

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防災風土資源&ローテク防災術 -香川大学客員教授松尾裕治-

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