後藤庄助と吉野川両岸の用水路構想「吉野川筋用水存寄り申上書」(徳島市)

徳島市国府町早淵の鮎喰川左岸堤防から南西に降りる道路をおよそ400m行った所に赤い屋根の大きな屋敷の後藤庄助の生家があります。

後藤庄助は、鮎喰川左岸、現在の徳島市国府町早淵で天明7年(1787年)に生まれました。父・利八郎は藍商を営み、組頭庄屋として地域の治水事業に尽力しました。

庄助も若くして藍商となり、諸国を巡りました。天保2年(1831年)には父の跡を継ぎ、組頭庄屋となりました。当時、吉野川流域では藍作が盛んでしたが、水田が少なく、飢饉の際には食糧不足に悩まされました。こうした経験が、後の「吉野川筋用水存寄り申上書(よしのがわすじようすいぞんじよりもうしあげしょ)」」へと繋がりました。

嘉永3年(1850年)、庄助は藩に建議書を提出しました。この中で庄助は、藍作の得失を論じ、吉野川両岸に大規模な用水を開削し、水田稲作を振興することを提案しました。庄助は、稲作中心の農本主義的な考えに基づき、吉野川流域の農民生活の安定を訴えました。

庄助は吉野川の治水にも関心を持ち、堤防の状況から河川改修の必要性を感じていました。庄助の構想は壮大でしたが、当時の技術や費用面から実現には至りませんでした。しかし、庄助の功績は、地域の防災風土資源として今も語り継がれています。

江戸時代の吉野川沖積平野では、藍作による商品経済が発展した一方で、農民の生活は困窮していました。こうした状況を打開するため、後藤庄助は藍作から米作への転換を訴える建議書を藩に提出しました。この貴重な歴史資料は、現代において利水・治水事業として実現しており、先人の知恵を未来に活かすことの重要性を教えてくれます。

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防災風土資源&ローテク防災術 -香川大学客員教授松尾裕治-

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