2025.08.26 22:31~地域を知る防災~四国防災風土資源フォローアップ調査個別整理表 (令和7年8月見直し)冊子の発行この度、~地域を知る防災~四国防災風土資源フォローアップ調査個別整理表(令和7年8月見直し)冊子を四国防災共同教育センターから発行しました。この冊子は、平成 28 年1 月に発行した『~地域を知る防災~四国防災風土資源知恵・教訓調査報告書』 以降のフォローアップ現地調査により、これまで新たに確認した防災風土資源を紹介します。昨年9月5日、四国防災八十八話マッ...
2025.08.18 08:28郷土を救った芳川顕正と吉野川治水史に残る覚円騒動(吉野川市)芳川顕正(よしかわあきまさ)は、麻植郡川田村北島(現在の吉野川市山川町北島)の医師・原田民部の四男として天保12年(1841)に生まれました。明治23年(1890年)に文部大臣に就任し、「教育勅語」の草案・発布に携わったことで知られています。有名な偉人です。顕正は、幼少期から非凡な才能を発揮し、16歳の春に徳島城下に出て学問を続け、22歳で長崎で英語を学びま...
2025.08.16 06:33四万十町が生んだ偉人・谷干城と四万十川の明治23年水害(四万十町)谷干城(たにたてき)は、1837年(天保8年)2月12日に土佐国高岡郡窪川(現在の四万十町窪川)で生まれ、幕末から明治時代を駆け抜けた人物です。 維新後、西南戦争で熊本鎮台司令長官として西郷軍から熊本城を死守する活躍により、一躍名望を集めた有名な偉人です。彼は土佐藩の儒学者の四男で、幼少期から18歳までを窪川で過ごしました 。その四万十町窪川本町にある谷...
2025.08.12 15:07四万十川の明治23年の津野町桑ヶ市の河道閉塞場所(津野町)明治23年9月11日に発生した四万十川水害は、河口から167.6km上流に位置する津野町桑ケ市での山腹崩壊と河道閉塞(天然ダム決壊)が発端となりました。その河道閉塞場所を現地調査の結果から紹介します。この山腹崩壊の跡は、戦後の航空写真にも残されており、大規模なものであったことがうかがえます。明治23年豪雨の山腹崩壊斜面は、現在、樹木が繁茂して現地では、その場...
2025.08.11 02:40明治23年水害を伝える中土佐町大野見の石碑(中土佐町)四万十川には、明治23年(1890年)9月11日に発生した四万十川の大洪水とその甚大な被害を後世に伝える石碑が、四万十市、四万十町、中土佐町に合わせて6つあります。その一つで最も上流の中土佐町大野見地区にある「明治23年水害紀念碑」を紹介します。この石碑は、四万十川の河口160kmの土佐町大野見寺野の県道21号脇の畑地にあり、石碑の側面(写真2)には「昆ノ処...
2025.08.09 06:01明治23年水害を伝える四万十町上秋丸の石碑(四万十町)高知県高岡郡四万十町には、明治23年(1890年)9月11日に発生した四万十川の大洪水とその甚大な被害を後世に伝えるこれまでに紹介していない石碑が3つあります。その一つで窪川の街から18km上流の四万十川が大きく蛇行する沿岸の上秋丸地区にある「明治二十三年水害伝承碑」を紹介します。この石碑は、河内五社神社跡への登り口の階段脇にあり、正面には「水位此處二及」と...
2025.08.06 04:30明治23年水害を伝える四万十町七里の石碑(四万十町)高知県高岡郡四万十町には、明治23年(1890年)9月11日に発生した四万十川の大洪水とその甚大な被害を後世に伝える石碑が3つあります。その一つで窪川の街の少し上流の七里地区の沖代部落集会所にある「明治二十三年水害伝承碑」を紹介します。この石碑は、国土地理院の自然災害伝承碑地図にも登録されており、その伝承内容として、明治23年9月11日に台風による豪雨で四万...
2025.08.04 07:24明治23年水害を伝える四万十町西川角の石碑(四万十町)高知県高岡郡四万十町には、明治23年(1890年)9月11日に発生した四万十川の大洪水とその甚大な被害を後世に伝える石碑が3つあります。その一つで窪川の街の少し上流の西川角地区の農地にある「明治二十三年水測標」を紹介します。この石碑は、国土地理院の自然災害伝承碑地図にも登録されており、その伝承内容として、明治23年9月11日に台風による豪雨で四万十川流域が洪...
2025.07.28 09:32坂東兵八と鮎喰川からの入田用水の整備(徳島市)徳島で語り継がれる土木偉人・坂東兵八(ばんどうひょうはち)による、谷あいの入田村(現在の徳島市入田町への鮎喰川からの入田用水の整備したことは地元の古老には、よく知られています。彼の郷土の名西郡入田村(現在の徳島市入田町)では、土地が鮎喰川よりも高かったため、農民は大きな水車を足で力強く踏み回し、多大な労力を費やして田に水を引かねばなりませんでした。坂東兵八は...
2025.07.22 10:54板東十郎兵衛と藍作中心の阿波藩食糧政策が生んだ「傾城阿波の鳴門」(徳島市)阿波藩の食糧政策の犠牲となった板東十郎兵衛(ばんどう じゅうろうべえ)がモデルに、なった人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」は全国に知られています。彼は代々、宮島浦および鶴島浦(現・徳島市川内町)の庄屋を務めていました阿波十郎兵衛屋敷で正保3年(1646年)に生まれました。十郎兵衛は、22歳で父の隠居により家督を相続し、庄屋を命じられ帯刀を許されます。25歳で妻お弓...
2025.07.07 05:24中江藤樹が住んでいた城下町大洲と肱川(大洲市)愛媛県大洲市のかつての大洲城の三の丸にあたる大洲高等高校内には、中江藤樹が住んでいた旧邸を模した至徳堂が中江藤樹(なかえとうじゅ)の邸跡として復元されています。中江藤樹は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者で、近江聖人と称えられた有名な偉人として知られています。彼は9歳で伊予国(現在の愛媛県)に移り住み、大洲藩の家臣として仕え、27歳で故郷近江に帰...
2025.06.28 05:21坂本龍馬脱藩の道・肱川下りと肱川のバランスを取った治水対策(大洲市)愛媛県内子町の小田川に坂本龍馬が土佐藩を脱藩し、長州藩へ向かう際に通った宿間亀の甲(写真1)があります。かつてこの宿間村(現在の内子町)の亀の甲は、川舟の交通の要所として栄えていました。龍馬が、この地で川舟に乗って、小田川、肱川を下り、大洲、長浜を経て長州へ脱藩したことで知られています。この文書では、幕末、坂本龍馬が脱藩の際に通った肱川(ひじかわ)の治水対策...