板東十郎兵衛と藍作中心の阿波藩食糧政策が生んだ「傾城阿波の鳴門」(徳島市)

阿波藩の食糧政策の犠牲となった板東十郎兵衛(ばんどう じゅうろうべえ)がモデルに、なった人形浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」は全国に知られています。

彼は代々、宮島浦および鶴島浦(現・徳島市川内町)の庄屋を務めていました阿波十郎兵衛屋敷で正保3年(1646年)に生まれました。十郎兵衛は、22歳で父の隠居により家督を相続し、庄屋を命じられ帯刀を許されます。25歳で妻お弓を娶り3男1女をもうけ、何不自由ない裕福な暮らしを送っていました。

しかし、33歳の延宝5年(1677年)、彼は「他国米積入川口裁判改め役」(現在の税関長に相当)という重職を命じられます。これが悲劇の発端となります。この役職は、蜂須賀藩が他国から輸入する米の検査を行う役所の長であり、その任務は当時、まさに命がけのものでした。

元来、阿波藩のほとんどの田畑は、全国一を誇った換金作物である藍作に特化していたため、米の生産量が極めて少なく、藩外からの米輸入に頼らざるを得ない状況でした。ところが当時、幕府から他国米の積入禁止令が出されたため、藩は米の密輸入を行わざるを得ない状態にありました。

そのような中、貞享2年(1685年)3月、津田浦に住む船頭彦六が積み入れた肥後米が輸送途中で紛失するという事件が発生します。これにより、阿波藩が他国米積入禁止の布告を犯していた事情が露見しかけたため、藩は苦渋の決断として、元禄11年(1698年)11月21日、その罪状を明確にしないまま十郎兵衛を処刑しました。深く思慮し、仁侠に富んでいた十郎兵衛は、ただ運命を受け入れ、口を閉ざして静かに目を閉じたと伝えられています。

お弓・お鶴母子の有名な場面である「父さんの名は、阿波の十郎兵衛、母さんはお弓と申します。」という順礼歌は、この物語を象徴しています。阿波藩の藍作中心の政策が招いた悲劇の史実は、吉野川の水害リスクを理解する上で貴重な逸話となっています。

この解説文では、阿波藩の食糧政策の犠牲となった板東十郎兵衛の悲劇と、換金作物である藍作が中心であった吉野川氾濫域の文化がもたらした地域の水害リスクについて考察します。

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防災風土資源&ローテク防災術 -香川大学客員教授松尾裕治-

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