中江藤樹が住んでいた城下町大洲と肱川(大洲市)

愛媛県大洲市のかつての大洲城の三の丸にあたる大洲高等高校内には、中江藤樹が住んでいた旧邸を模した至徳堂が中江藤樹(なかえとうじゅ)の邸跡として復元されています。中江藤樹は、近江国(滋賀県)出身の江戸時代初期の陽明学者で、近江聖人と称えられた有名な偉人として知られています。

彼は9歳で伊予国(現在の愛媛県)に移り住み、大洲藩の家臣として仕え、27歳で故郷近江に帰るまで、城下町大洲で青春時代を過ごしました。

この文書では、藩政時代初期から今日に至るまで、大洲の街がどのように進化してきたのかを、現地調査の結果に基づいて解説します。特に、肱川の洪水位観測記録などから、川を挟んで南北に形成された渡津集落(わたづしゅうらく)の城下町が、幾多の水害に耐えながらも守られてきた地形特性や、今も色濃く残る城下町の面影に焦点を当てます。

大洲高校内には、大洲中学校創立10周年を記念して建立された石碑や、中江藤樹先生の青年像が残されており、その台座には彼の思想を示す「知行合一」の文字が刻まれています。大洲高校の北側には、旧加藤家住宅主屋や大洲城など、城下町大洲の面影を残す光景が広がり、当時の様子を偲ばせます

大洲城は、周囲を山に囲まれた大洲盆地の南麓に位置しており、大洲市の市街は愛媛県内で唯一の内陸都市の中心となっています。ここは210年間にわたり、加藤家6万石の城下町として発展してきました。特に注目すべきは、肱川の洪水から少しでも安全な、地盤の高い場所に城下町が立地している点です。

大洲の肱川には、明治6年(1873年)に川舟に板を置いた「浮亀橋」が架けられましたが、本格的な抜粋橋は、大正2年までありませんでした。藩政時代からの洪水観測記録が残されており、大洲が肱川の洪水と常に戦ってきた歴史を物語っています。

大洲城を中心に発展してきた大洲の肱川の洪水対策を考える上で、中江藤樹が住んだ「伊予の小京都」と呼ばれる城下町大洲の、肱川の洪水と共存してきた歴史を学ぶことは、現在の水害リスクをより深く理解し、将来の防災社会資本整備や私たち自身の防災意識向上につながると考えます。

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防災風土資源&ローテク防災術 -香川大学客員教授松尾裕治-

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