伊達宗城(だてむねなり)と安政南海地震津波(宇和島市)
宇和島は、愛媛県南予地方の宇和島伊達家10万石の宇和島城を中心に発展した旧城下町で、 西側は宇和海に面し、それ以外の三方は山地に囲まれたリアス式海岸が広がっています。今後発生が予見されている南海トラフ巨大地震の際には、最大7mの津波が到達することが予想されています。宇和島では、安政元年(1854)の安政南海地震で津波が城下まで達し、当時の海沿いにあった新田である朝日町、新田町などの平地の多くが浸水被害を受けた歴史があります。
幕末に活躍した宇和島藩8代藩主の伊達宗城(だてむねなり)(当時36歳)の時に安政南海地震が発生し、宇和島の城下町は大きな津波被害を受けました 。
• 宇和島の安政南海地震での津波高は、宝永地震報告書(内閣府)によると2m〜3mと報告されています。
• 当時の海沿いにあった浜屋敷や、新田であった朝日町、升形町、新田町、辰野川が海に流れ込む錦町、丸穂町の龍興寺の麓付近まで津波が浸入したと推定されています。
• 元禄16年(1703年)の城下屋敷割絵図からは、宇和島城の海側には城下町がなく、五角形の縄張り(海城)から海側に市街地が発展したことが分かります。このため、昔、新田であった市街地の大部分が浸水したと想像されます。
• 宗城が軍制の近代化をはかる上で整備した施設のうち、北西側にある宇和島藩の水軍基地は浸水しました。
• 一方で、神田川沿いの仏海寺前の造煙硝方、大超寺奥の威遠流製薬場、城下南東の大隆寺前の大筒鋳場は津波被害から免れており、宗城の近代化をはかる知恵がうかがえます。
• 安政南海地震後の安政2年に築造した樺崎砲台の場所や、宇和島東高等学校、天赦園は、戦後航空写真から津波浸水区域にあることが示されています。
• 宇和島城山の背後の南東の平地を除き、海側は高い津波浸水リスクが想定されています。
• かつて海側の新田であった過去の土地開発の変遷が、今後の南海トラフ地震の防災に備えるための重要な情報となることを示唆しています。
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