ヨハネス・グッセン頌徳碑と南海トラフ地震・津波災害痕(海陽町)
ヨハネス・グッセン頌徳碑は、徳島県海部郡海陽町浅川川ヨリ東26-4(浅川漁村センター(海陽町浅川出張所)敷地にあります。
ヨハネス・グッセン氏の功績は、現地の解説看板によると、1957年(昭和32年)2月10日夜半、当町(旧海南町)の船「高坂丸」が和歌山港からの帰航中に阿尾沖で火災・沈没しました。故国デンマークから横浜に向かっていた「エレン・マースク号」がこれを発見し、救助活動を開始しました 。その際、「エレン・マースク号」の機関長であるヨハネス・グッセン氏は、激しい波間で救助を求める人影を見て単身海中に飛び込み、全力を尽くしましたが、自然の暴威に勝てず、最終的に乗組員の藤枝由太郎氏、藤枝英三氏、佐藤大吉氏とともに海の犠牲となりました。頌徳碑は、ヨハネス・グッセン氏の勇気と人間愛を伝えるものです。
浅川漁村センター(浅川出張所)の敷地内には、昭和南海地震の被害痕の昭和南海地震最高津波石柱などがあり、その前面には新しい海岸堤防が整備されています。
津波の状況は、昭和南海地震津波に襲われた直後の写真からは、浦上川の河口から流れ込んだ津波が、50トンもある大きな船を流し込ませ、東地区の家屋を破壊している様子が分かります。被災1年後の航空写真でも東地区などに被災の面影が残っていました。
被害の詳細は、徳島大学教授の村上仁士氏による「浅川の各地地区の家屋の被災分布図と被害解説」によると、浦上川へ流れ込んだ津波は、河道を遡上しつつ、東下地区の護岸を直撃して水位を上げ、東地区を浸水させ、さらに流れ込んだ大きな船がこの地区で暴れまわり、ほとんどの家屋を破壊したと推定されており、東地区の被害が特に大きかったことが示されています。住民の体験談として、津波で流されてきた船の碇が近所の井戸に入り、船が止まったというエピソードもお聞きしました。
このように徳島県南部では過去の南海地震・津波によって大きな被害を受けてきました。海陽町の浅川には、現在16基の自然災害伝承碑が国土地理院地図に登録されています。
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