義民・お秀(ひで)さんを祀った秀塚(ひでつか)神社(美馬市)
美馬市美馬町北東原の徳島自動車道(美馬IC)を出た、徳島自動車道北側の側道沿いの擁壁上に義民・お秀さんを祀った秀塚神社があります。
この現地の秀塚神社は、外観はほとんど神社の体をなしていない集会所のような建物の中にあり、その中に現在、義民・お秀と夫・与右衛門が祀られています。
宝暦8年(1758)、阿波国美馬郡重清村(今の徳島県美馬市)庄屋の妻・お秀は、重清村の組頭庄屋が正規のものよりも2割も大きな枡を使って年貢を不正に徴収していることについて、村を代表して徳島藩家老に直訴しました。結果として組頭庄屋は追放されたものの、村のため正義にために一身を捧げたお秀も鮎喰河原で打首となり、村人はお秀に感謝してお秀の墓を「秀塚」として鄭重に供養し、後に秀塚神社に祀ったという義民・伝承です。
またこの重清村(しげきよそん)騒動のあった地域は、吉野川左岸阿讃山脈を背に東に鍋倉谷川,西に高瀬谷川挟まれた扇状地,山地と段丘と沖積平野からなっています。西端の中鳥地域は、吉野川の川中島であるため洪水がある度に家は天上まで水に浸かるため、洪水が予測されると、まず飲み水を、次にご飯を炊いて食料を確保していたという洪水常襲地域でした。
この伝承は、江戸時代、吉野川洪水被害や年貢に苦しめられてきた住民に代り、お秀が不正をしていた悪人を藩に訴えたものです。このような地域に残る義民伝承の背景などを調べ、今後の各種災害に備えることも大事です。
この写真をクリックして、現地探訪用個別調査表や写真等をご覧ください。
0コメント