新しい道・粟井坂をつくった大森盛籌の郷土(斎灘沿岸)の災害リスク(松山市)

新しい道(粟井坂)をつくった大森盛籌(おおもりもりかず)は、伊予の国(愛媛県)風早郡小川村の庄屋に生まれました。当時、山道だった旧北条市と松山市を結ぶ、「粟井坂(あわいざか)」をみんなが歩きやすい海岸沿いの道に愛媛の土木の偉人です。

この文書は、大森盛籌が当時険しかった山道の粟井坂を海岸沿いに改修した功績と、その出身地である瀬戸内海の斎灘(いつきなだ)に面する地域の災害記録に基づき、その歴史から得られる教訓を解説するものです。特に、大森盛籌の出身地である瀬戸内海沿岸における高潮・津波被害に焦点を当てています。

大森盛籌は、かつての粟井坂は、堀江の大谷口から狭い山道を登り、関所跡を通って小川の大師堂へと下る道でした。海岸沿いを通ることができず、海に近い場所まで山が迫っていたため、険しい山道を歩くか馬に乗るかしなければなりませんでした。まさに北陸の親不知、子不知のような、波が押し寄せる難所の海岸沿いに新しい道を完成させた人です

この瀬戸内海(斎灘)の難所であった粟井坂新道碑の北と南の斎灘沿岸は、予讃線から海岸までは比較的標高が低く、海抜2~3m程度の土地に多くの住居があり、南海地震では、瀬戸内海に面する松山や三津浜で地盤沈下が発生しています。そのため、戦後のキジア台風などにより高潮による浸水被害に見舞われています。

また津波・高潮の松山市防災マップでは斎灘沿岸部の地盤が低い場所は、、高潮や津波に浸水想定区域になっていて、松山市の斎灘沿岸部は、高潮や津波などの災害リスクが高いことが分かります。

このような高潮・津波などの過去の災害記録や、明治前期に郷土の海岸沿いに平坦な新しい道を作った偉人の史実は、現在の住民に、社会資本整備の重要性と瀬戸内海沿岸部の災害リスクへの注意を促し、防災意識を向上させる上で、非常に有効な情報となると考えられます。

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防災風土資源&ローテク防災術 -香川大学客員教授松尾裕治-

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