義経が吉野川を駆け抜けた伝説とその地城の水害リスク
平安時代の末期、元暦2年(1185年)2月18日、源義経が徳島県小松島市(旧阿波勝浦)の田野町に上陸し、屋島に逃れた平家を追って、進軍していった順路を義経街道といいます。義経が小松島の海岸に上陸してから屋島に攻め入るまで、わずか1日と言われています。その中で、小松島市は、小松島市内を義経が駆け抜けた道を「義経ドリームロード」として、義経にまつわる伝説の場所の全長10kmの道順が示された観光マップで紹介しています。
義経は勝浦川を越え北上し、途中、平家側に建つ勢力を制圧しながら進軍います。最初に徳島市丈六町の「熊山城」を攻略します。そして「熊山城」を更に北上して園瀬川、鮎喰川を渡河し国府の桜間城を制圧します。しかし、北には東西に流れる大河吉野川の渡河の難題がありました。
現在の藍住町の「住吉神社」には「義経一行の行く手を、吉野川が遮り、途方に暮れていたところ、にわかに白鷺が舞い降りて来て、浅瀬の位置を教えられ吉野川を渡ることができた。」という社伝が残っています。そして吉野川を渡って板野町に入り、屋島へと迫ります。この板野郡にあった板西城は、阿波から讃岐へ最短距離で入る大阪峠の入り口に位置します。
住吉神社は、義経が立ち寄ったという伝説から、吉野川の氾濫原にある微高地に位置していたと考えられます。現在の色別標高図からは標高4~5mあること、また大阪峠の入り口に位置する板西城跡は、さらに高い氾濫微高地(標高5~6m)にあることが分かります。当時の吉野川(現在の旧吉野川)の氾濫原にあった農地(標高2~3m)よりも高い微高地に、住吉神社や板西城が位置していたことが分かります。これは、川中島であっても吉野川の洪水による浸水被害を少なくする立地の知恵があったと考えられます。
吉野川洪水浸水想定区域図では、藍住町の住吉神社、板野町の板西城跡は、洪水による浸水の深さが3m~5mの区域になっています。このように、義経が吉野川を駆け抜けた伝説の地である、当時の吉野川の氾濫原に位置していた住吉神社・板西城、そして藍住町や板野町、国府町といった現在の住民や観光客にとって、吉野川沿岸部の平地の水害リスクへの注意を促し、防災意識を向上させる上で、非常に有効な情報となると考えられます。
この写真をクリックして、現地探訪用個別調査表や写真等をご覧ください。
0コメント