山崎弥右衛門の江の口川の開墾と高知の水害リスク(高知市)
高知市の江ノ口川が国分川に流れ込むところに弥右衛門橋があります。その名称は山崎弥右衛門(やまさきやえもん)さんに由来します。山崎弥右衛門は、潮江村の庄屋で高知城下の東端の新田を開発したことで知られています。
山崎弥右衛門は、江戸時代初期に高知市で新田を切り開いた人物です。彼の祖父は山内一豊(やまうちかつとよ)の土佐入国に際して京都から従い、弥右衛門自身は一度家が途絶えましたが、後に郷士となり、二代藩主・山内忠義(やまのうちただよし)の命令で、元和2年(1616年)に比島(ひじま)や下知(しもじ)方面の江ノ口川(えのくちがわ)沿いの土地開発で活躍しました。
土佐藩は、元和年間(1615〜1624年)から寛永年間(1624〜1644年)にかけて、城下町づくりや新田開発を進めました。この時期に近い頃に作成された「正保城絵図」(写真2)を見ると、江ノ口川河口部周辺の両岸には「浅田」と記された土地や整備された「江ノ口川」の川筋が確認できます。
山内一豊が高知に入った当時、高知は鏡川と江ノ口川に挟まれた低地で「河中(かわなか)」と呼ばれていました。そのため土佐藩は、高知城下を洪水から守るために、堀や堤防を整備し、水防(水害から守る活動)を充実させてきました。現在の高知市も、江ノ口川と鏡川に挟まれた低地部に発展した街です。特に大河川である鏡川では、城下町への水害を防ぐため、写真8に示すように鏡川沿いに**12ヵ所の水丁場(すいちょうば)**が設けられ、洪水時には水防組が出動して持ち場を固める水防体制が整っていたことが知られています。
高知市洪水ハザードマップ、鏡川、国分川・久万川の浸水想定区域では、高知城を除いた高知平野の大半が浸水すると想定されており、高知市内が洪水に対して非常に高いリスクを抱えていることがわかります。
高知市は、高知城を中心に高知平野の新田開発と共に東に発展してきた街です。藩政時代から水丁場制度で鏡川の洪水から低地部を守ってきた歴史があります。これらの水害対策の取り組みは、今日の洪水対策を考える上で、人々の意識を高める「ソフト対策」として非常に参考になります。。
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