百々越前の高知城築城と古地図に見える治水対策の工夫(高知市)
高知城は土佐藩の初代藩主山内一豊(やまうちかつとよ)が慶長6年(1601)8月に築城総奉行に家老の百々越前守(どどえつぜんのかみ)を任命し、築城させたことが知られています。
この文書では、高知城築城期に百々越前が主導した治水対策の工夫と、それが古地図にどのように記録されているかについて解説します。特に、水害の多発する低地に城下町を築く上で、いかに先人たちが自然の特性を理解し、巧妙な対策を講じたかに焦点を当てます。
百々越前が高知城を築城した時期に近い頃に作成された「正保城絵図」から読み解くと、高知城下町の堤防・川・堀の詳細な記録からは、外堀が城の防御だけでなく、上町に浸入した洪水を郭中に入れることなく江ノ口川へ排水する役割も担っていたことがわかります。また、東の外堀は下町の竪掘(たてぼり)や堀川につながっており、現在の掘詰(ほりづめ)まで物資を城下へ運ぶ水路としても利用されていました。
高知城の石垣は、追手門・鉄門付近以外では、ほとんど穴太衆(あのうしゅう)による「野面積み」の工法で作られています。高知城で、最も美しいとされる石垣は「打込みハギ」工法が使用された、杉ノ段から奥に回った所の三ノ丸の石垣です。先人たちの技術の高さを感じることができます。
また高知城の石垣には、雨の多い土佐ならではの独自の設備で、他の城郭では見ることができない「石樋(いしどい)」という工夫もあります。
高知城が築かれた当時、その山は河中山(かわなかやま)と呼ばれていましたが、のちに洪水を嫌って高智山(こうちやま)と改名されました。高知城は、享保12年(1727年)の火災によって焼失していますが、その本城は天守閣4層6階、金箔まばゆいばかりの名城だったと言われています。
高知市は、高知城を中心に低平地の東に発展してきた街です。高知城築城時から、領土の統治と物資の集散を重視し、進歩した治水技術と築城の技術を投入し、内外の掘割は治水や排水の効果をもねらった城下町の町割りで洪水から城下町を守ってきた歴史があります。
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