坂本龍馬脱藩の道・肱川下りと肱川のバランスを取った治水対策(大洲市)

愛媛県内子町の小田川に坂本龍馬が土佐藩を脱藩し、長州藩へ向かう際に通った宿間亀の甲(写真1)があります。かつてこの宿間村(現在の内子町)の亀の甲は、川舟の交通の要所として栄えていました。龍馬が、この地で川舟に乗って、小田川、肱川を下り、大洲、長浜を経て長州へ脱藩したことで知られています。

この文書では、幕末、坂本龍馬が脱藩の際に通った肱川(ひじかわ)の治水対策がどのように進化してきたかを、現地調査の結果を踏まえ解説します。特に、甚大な被害を受けた平成30年7月豪雨水害を踏まえ、水害が多発する低平地である肱川沿岸において、先人たちが肱川の地形特性を深く理解し、いかに巧妙な「バランス」を考慮した治水対策を講じてきたかに焦点を当てます。

坂本龍馬は土佐藩を脱藩し、大洲城直下を流れる肱川下った頃とは、打って変わって、現在の大洲市は発展しています。それでも大洲市の大洲盆地は、低平地で治水上極めて厳しい条件の地域のため、現在も高い水害リスクを抱えつつ、治水対策の途上にあります。

龍馬が肱川を下った当時の沿川は、現代のような大規模な堤防が存在しなかった藩政時代は、およそ2~3年に一度程度の頻度で洪水被害に見舞われていました。その後、中流に昭和35年(1960年)に鹿野川ダムが建設されるなど下流河道の改修を進み治水安全度はさらに向上していました。しかし一部の暫定堤を残しつつ整備であったため平成30年7月の西日本豪雨では、甚大な被害に見舞われてしまいました。この災害の激特事業により上下流の堤防のバランス、そしてダムと堤防の連携などの治水対策が行われ、現在、上流では山鳥坂ダムの建設が進められています。

大洲市は、大洲城を中心に、低平地の水害と共存し発展してきた歴史を持つ街です。特に東大洲地区などにおいては、暫定堤防を築き、上下流の堤防の治水安全度のバランスを考慮することで、洪水から大洲の街を守ってきた歴史があります。これらの肱川における治水対策の取り組みは、今日の治水対策を考える上で極めて参考となるものです。

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防災風土資源&ローテク防災術 -香川大学客員教授松尾裕治-

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