坂東兵八と鮎喰川からの入田用水の整備(徳島市)

徳島で語り継がれる土木偉人・坂東兵八(ばんどうへいはち)による、谷あいの入田村(現在の徳島市入田町への鮎喰川からの入田用水の整備したことは地元の古老には、よく知られています。

彼の郷土の名西郡入田村(現在の徳島市入田町)では、土地が鮎喰川よりも高かったため、農民は大きな水車を足で力強く踏み回し、多大な労力を費やして田に水を引かねばなりませんでした。

坂東兵八は、この問題を解決したいと強く願い、様々な調査研究を行いました。その結果、水量豊富な鮎喰川から用水を引くのが最も有利である考え、地主仲間たちに用水の必要性を説き、明和6年(1769年)、64人の同志が連署して藩に新用水建設を願い出ました。しかし、藩に聞き入れられることはなく、度重なる嘆願も退けられ続けました。

文化3年(1806年)3度目の願書を藩に提出。「万一これが失敗した場合には、私財はもちろん、一身を投げうっても悔いはない」と、その不屈の決意を示しました。ようやく許可が下りました。

実際に工事に着手すると、思うように進まず、反対の声も上がり、中止を求める者まで現れます。特に困難を極めたのは、広野村(神山町広野)岩ノ鼻の岩石の切り崩しでした。最終的には、切り崩した石くず一升分を米一升と交換するという方法まで講じなければなりませんでした。しかし、着工から3年、延長2128間(約3.8km)、深さ1間(約1.8m)に及ぶ用水の大工事はついに完成しました。

兵八は用水の完成を感謝し、水利の永久的な保護を祈って天神社内に記念碑を建立し、水神宮を祀って敬いました。彼は用水完成から15年後の文政6年(1823年)3月、92歳の長寿を全うしました。

これが坂東兵八の功績です。私たちは地域の地形的特性を活かした兵八の知恵と、粘り強い努力の重要性を学ぶことができます。また、地域の発展が単なる自然の恵みだけでなく、このような社会資本整備の積み重ねによって築かれていることを歴史が示しています。

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防災風土資源&ローテク防災術 -香川大学客員教授松尾裕治-

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