明治23年水害を伝える四万十町七里の石碑(四万十町)
高知県高岡郡四万十町には、明治23年(1890年)9月11日に発生した四万十川の大洪水とその甚大な被害を後世に伝える石碑が3つあります。その一つで窪川の街の少し上流の七里地区の沖代部落集会所にある「明治二十三年水害伝承碑」を紹介します。
この石碑は、国土地理院の自然災害伝承碑地図にも登録されており、その伝承内容として、明治23年9月11日に台風による豪雨で四万十川流域が洪水に見舞われた後、一時的に水位が下がったものの、1〜2時間後に上流の土砂崩壊によって大激流が発生し、下流の集落がほぼ水没し、多数の死傷者が出たことが記されています 。
「窪川町史」(2005年)にも当時の詳細な様子が記されており、雨は、11日の午前中からしだいに激しくなり“篠つく豪雨”となったことや四万十川上流の東津野や梼原郷では水量が増し、山腹からの出水や山崩れが発生したことが述べられています 。一時的に水位が引き人々が安堵した矢先に、約1〜2時間後に大音響と共に大激流が襲来し、平地の家屋を押し流し、人々は裏山や丘へ避難したとすざまじい水害が記録されています 。
そのすざまじい水害の様子を、四国八十八話高知版マップは、明治23年四万十窪川の台風豪雨でおこった「突然の激流」というタイトルで、当時の惨状を物語る分かりやすいイラストとして紹介されています。
天然ダム決壊地点から下流37.4kmにある明治二十三年水害伝承碑がある沖代部落集会所の標高は、220.8mとなり、四万十川沿いの水田標高218.3mに対して、約2.5m高い四万十川洪水で浸水することが分かり、明治23年洪水で浸水したと推定されています。山裾にある住家の一部も浸水するすざまじい洪水であったことが分かります。
この石碑は、百数十年という時を超えて、災害の恐ろしさを私たちに伝えてくれます。文字や記録として残すことで、人々の記憶が薄れても、過去の教訓は受け継がれていきます。現代においては、地域のハザードマップや防災マニュアル、そしてこうした記念碑を通じて、災害の記憶を次世代へ伝える努力が不可欠です。
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