四万十川の明治23年の津野町桑ヶ市の河道閉塞場所(津野町)
明治23年9月11日に発生した四万十川水害は、河口から167.6km上流に位置する津野町桑ケ市での山腹崩壊と河道閉塞(天然ダム決壊)が発端となりました。その河道閉塞場所を現地調査の結果から紹介します。
この山腹崩壊の跡は、戦後の航空写真にも残されており、大規模なものであったことがうかがえます。明治23年豪雨の山腹崩壊斜面は、現在、樹木が繁茂して現地では、その場所はよくわかりませんが、蛇行する四万十川に西倉川が合流するすぐ下流の地点になります。丁度、県道21号の岩土トンネルと桑ケ市トンネルの間の四万十川になります。
国土地理院の「標高がわかるWeb地図」5mDEMから推定した標高で見ると河口から167.6km地点にある四万十川の河床高は標高372.2mで、現在の県道19号の地盤標高は386.8mです 。天然ダムの高さは、標高410mと推定されています。
また『窪川町史』(2005年)には、当時の天然ダムができ崩壊した時の様子が詳しく記録されています。それによると、山崩れによって川が土砂で埋まり、天然ダムが形成され、倉川の集落が水浸しになりました。最終的に、ダムに溜まった水が耐えきれなくなり、土砂が一度に崩壊して下流に激流となって押し寄せ、予期せぬ大災害を引き起こしたことが記録されています。
現在、地理院地図のカシミール3Dの自然災害伝承碑地図に登録されている洪水の伝承碑は、天然ダム決壊地点から下流136.9km地点まで、6つの明治23年水害伝承碑が残されています。これらの伝承碑は、当時の災害の記録であり、地域の洪水ハザードを示しています 。
災害は時代が変わっても必ず発生するものであり、過去の災害とよく似た現象が起こることがあります。 過去の災害伝承は、四万十川の氾濫原が昔も今も水害リスクが高い地域であることを示しています。
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