四万十町が生んだ偉人・谷干城と四万十川の明治23年水害(四万十町)
谷干城(たにたてき)は、1837年(天保8年)2月12日に土佐国高岡郡窪川(現在の四万十町窪川)で生まれ、幕末から明治時代を駆け抜けた人物です。 維新後、西南戦争で熊本鎮台司令長官として西郷軍から熊本城を死守する活躍により、一躍名望を集めた有名な偉人です。
彼は土佐藩の儒学者の四男で、幼少期から18歳までを窪川で過ごしました 。その四万十町窪川本町にある谷干城の生誕地や窪川周辺の明治23年の四万十川の防災風土資源の現地調査の結果から紹介します。
当時、谷干城の生誕地である窪川付近の四万十川には十分な堤防もなく、四万十川に合流する窪川の城下町(現在の四万十町窪川本町)の見付川の左岸にあります。窪川付近の戦後航空写真には、その昔の面影残されています。
国土地理院の「標高がわかるWeb地図」5mDEMから推定した標高で見ると、谷干城の生誕地の地盤標高は205.5mで、河口から123km地点の窪川の四万十川の河床高は195.0mであり、川が10.5m増水すると浸水する高さです 。窪川の対岸にある大井野の農地の地盤標高は206.7mで、窪川の低地は四万十川の洪水が起こるたびに逆流で浸水被害に遭っていたと考えられます 。
明治23年の大洪水では、窪川町史によると大井野集落の家屋が流失し、住民は屋敷を山手に移転しました。また、高岡神社中ノ宮付近にあった門前町も水没し、消滅しました。この水害は、四万十川河口から167.6km上流の津野町で山崩れが起き、天然ダムが形成された後、決壊したことで発生したことなどが、記録されて残っています 。
地理院の自然災害伝承碑地図には、天然ダム決壊地点から下流136.9km地点の四万十市までに、明治23年水害を伝える6つの伝承碑が登録されています。最下流の四万十市の碑は、明治23年9月12日大洪水標となっており、上流からの四万十川の洪水伝播速度を考えると翌日になっているのは頷けます。
これらの伝承碑は、谷干城が活躍した時代の災害の記録であり、地域の洪水ハザードを示しています。過去の災害伝承は、四万十川の氾濫原が昔も今も水害リスクが高い地域であることを示唆しています。
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