郷土を救った芳川顕正と吉野川治水史に残る覚円騒動(吉野川市)
芳川顕正(よしかわあきまさ)は、麻植郡川田村北島(現在の吉野川市山川町北島)の医師・原田民部の四男として天保12年(1841)に生まれました。明治23年(1890年)に文部大臣に就任し、「教育勅語」の草案・発布に携わったことで知られています。有名な偉人です。
顕正は、幼少期から非凡な才能を発揮し、16歳の春に徳島城下に出て学問を続け、22歳で長崎で英語を学びました。そして、慶応3年(1867)には伊藤博文と知り合い、彼の英語の教師となりました。その後は、東京府知事、内務次官などを経て、明治23年(1890年)に文部大臣に就任し、「教育勅語」の草案・発布に携わったことで知られています。その後、明治40年(1907)67歳のときに伯爵位を得ています。77歳まで長生きし大正9年(1920)に亡くなっています。
徳島県吉野川市山川町川田にある芳川顕正・伯爵生家跡や石井町の覚円騒動の周辺の明治21年7月31日洪水の被災現場の現地調査・文献調査の結果から紹介します。
吉野川では、国(内務省)と徳島県による本格的な河川改修工事は、吉野川中流の石井町の覚円堤防から始まり、国は、覚円堤防の前面に舟運及び流路固定のための低水工事の「沈床工」に、明治18年2月から工事に着手し、県が狭窄部の覚円堤防を撤去し引堤により川幅を約320mから約650mへ拡げる工事を明治21年から着手していました。工事は難航し工事は遅々として進みませんでした。そのような矢先、明治21年7月に発生した洪水により石井町西覚円の吉野川堤防が決壊し、多くの尊い人命や貴重な財産が失われました。
被災住民の怒りの矛先は、次第に内務省や徳島県の河川工事に対して向けられます。そして、覚円村民は、不平と憤怒で暴徒化し大挙して徳島へ向かい県庁へ強訴します。これで、内務省の工事が中止になります。この覚円騒動は芳川顕正が尽力し治められました。
国の吉野川工事の中止は、後に「千秋の遺憾」と嘆かせた吉野川治水史に残る事件となりました。この吉野川の明治時代の覚円騒動は、時代を超えて社会資本整備の難しさや水害の恐ろしさを伝えています。
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