増田淳と古川渡し・古川橋・吉野川橋(徳島市)

吉野川河口から約4kmに架かる吉野川橋、長さ1071m、17のアーチをもつ単純曲弦鋼ワーレントラス橋の北詰、県道39号脇に木製の古川橋を長きにわたり守り続けた地元の庄屋・豊川仲太郎を讃える豊川翁之碑が、また吉野川橋上流100m付近に古川舟渡し跡の石碑があります。この吉野川橋の架設にまつわる歴史や当時の架橋技術について、現地調査、文献調査の結果から紹介します。

この吉野川橋は、架設当時は東洋一の長さを誇りました。この橋梁には、日本を代表する香川県高松市出身の土木技術者「増田淳(ますだじゅん)設計により、鉸鋲(こうびょう)や井筒(ケーソン)基礎などの様々な技術が取り入れられています。この橋は昭和3年(1928)に完成し97年を経た現在も、補修などメンテナンスにより健全な状態が保たれています。眉山と織りなす美しい景観が眺望できる「徳島」を象徴する橋として大切に守られています。

増田淳は、1883年に高松市西通町(現在の扇町、錦町)で生まれ育ち、高松中学校(現在の高松高校)を卒業しました。東京帝国大学に進学し、広井勇から土木技術の基礎を学んだ後、アメリカに渡り、14年間の滞在期間中に陸橋、鉄道橋、可動橋などおよそ30もの橋を設計・施工を手掛けました。その後も、日本全国各で多くの橋梁の設計・施工に尽力した四国の土木偉人です。

橋ができるまで、人や物資の輸送は渡し舟が唯一の手段であり、吉野川には116もの渡しがありました。その中の一つで江戸初期から明治19年迄で吉野川橋上流にあった「古川舟渡し」と呼ばれる渡し場から、住民は幅1kmにも及ぶ吉野川を渡し舟で渡っていました。史跡・古川舟渡し跡石碑からは、淡路街道の一部として板野郡古川村(現徳島市応神町古川)と名東郡上助任村(現徳島市上助任町)を結んでいた、広域的な渡しであったことが記されています。

地元念願の吉野川橋の架設工事は大正14年11月に着工し昭和3年(1928年)12月に完成しました。また開通式は4万人もの人が参加して盛大に行われました。間もなく架橋100年を迎える吉野川橋は、昭和の戦禍や南海地震にも耐え、今なお徳島市内の幹線道路交通網の一翼を担う重要な橋です。今も補修などの維持管理でされている吉野川橋は、今後の橋梁の長寿命化に向けた取り組みの参考になる地域の社会資本です。

この写真をクリックして、現地探訪用個別調査表や写真等をご覧ください。

防災風土資源&ローテク防災術 -香川大学客員教授松尾裕治-

本サイトは、四国各地の土地柄(過去の災害経験)から、災害を未然に防ぐ目的をもって行われる災害時の避難行動や普段の備えにも生かされている取り組み、知恵・教訓が石碑などに伝承され、今日の防災に活かせる教訓がある防災風土資源の情報と誰でもが簡単にできるローテク防災術を紹介するサイトです。